オピニオンは肩書きと切り離せるのか?

上に書いた詐称疑惑に関係して、私が興味を持ったことは、意見と肩書きは切り離せるのかという問題である。このサイト(http://d.hatena.ne.jp/t-tjm/20051230/)によると、切込隊長の仲間(だった人たち)は、ハッタリを楽しむべきであり、肩書きがウソであろうと、オピニオンがよければそれはどうでもいいことだという主張がある。
けれども、この主張には私は強く反対する。

第一に、現実問題として社会において肩書きはとても重要なものであって、いくらいいことをいってもニートであれば、現実社会では相手にされないというのが実情である。そこには現在の肩書きというか社会的な地位を築きえたという事実が、一つの社会的な信用として機能しているわけであり、その信用が発言の信頼性をある程度保証することになる。大学教授という肩書きがあるからこそ、バカなオピニオンが活字になったりもする。
ともかく、信用というのは社会の中で中心的な地位を占めるもので、たとえば通貨という問題を考えても、国がその信用を保証しているから、ただの紙切れをありがたがるのである。贋金作りが巨悪とされるのは、社会の土台となる信頼を切り崩すからである。
もちろん、ネットというものが贋金作りの文化であり、ネットがポストモダンな状況を生み出したとかいうのは可能だし、おもしろいと思うが、だからといって贋金使いを擁護する気にはなれない。いいたいのは、詐欺師を社会学的な分析対象とするのはおもしろいと思うが、詐欺師そのものを擁護するのはどうかとおもうということだ。
もちろん、これは一般論である。


第二に、山本一郎氏に関しては、オピニオンを支えるはずの資料が正しいのかどうかという疑問もある。これはオピニオンの正当性にとって死活問題である。何かについて語って際に、「ベネッセの調査によると」といい、その議論のサポートとしたが、実際にはベネッセはそのようなリサーチをしていなかったということがあった。なんかのレポートによると、山本氏は「酔っていて会社の名前を間違えた」というようなことをいっていたそうだが、わたしの知る限り、本物の調査結果がどこにあるのかは明らかになっていない。氏のブログを読み直していないので、ただ印象になるが、某調査によるととか、広告代理店の資料によるとなど、資料が特定できない発言も多かった気がする。
また、氏には『「俺様国家」中国の大経済』という著書があるが、http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50162467.htmlの人によると「すぐにわかるのは、この人はせいぜい数冊の本とWebしか資料にしていないのだな、ということ。ましてや取材はしていない。」と感じられるそうである。山本氏の場合には、ハッタリが経歴だけではなく、オピニオンのもととなる資料にもハッタリが含まれている可能性があるということになる。
ただ、私はこの中国本を読んでないのでませんので、その程度のオピニオンであるということを自己申告しておきます。
ともかく、この辺のことに疑問を感じさせるのも、経歴詐称疑惑があるからではないでしょうか。

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というようなことを勢いに任せて書いてしまいました。反省しています。私としては疑問として感じたことを率直に書いただけなのですが、山本氏は誹謗中傷した人を告訴するが謝罪をすれば許してくれるかもしれないということを書いているので、私の意図と反して批判とうけとられるかもしれないことを書いてしまったことを深くお詫びいたします。
ただ、上の文章は、どのような思考の変遷を経て謝罪へと至ったのかということを示すため、一種の反省へと至る道筋の過程として、しばらくの間掲載を続けたいと思います。