マグロ解体ショーはなぜエロティックなのか?−1

GyaOにて筒井康隆劇場『エロティックな総理』が製作されることになったことを記念して(http://arena.nikkeibp.co.jp/news/20060209/115314/)、今回はエロスに迫ってみたいと思う。
以前に、「マグロ解体ショー」ということばは、なぜエロカッコいい響きをもつのかという件について書いた(http://d.hatena.ne.jp/jirosan/20060203/1138984829)。実は、先日そのエントリーを書いて以来、私の心の中にはいつもマグロ解体ショーがいた。「この内容を登録する」ボタンを押し、前回のエントリーを載せたあとも、マグロ解体ショーのことは片時も忘れたことがなかった。振り返るとマグロ解体ショーがそこにいたのである。
ということで、マグロ解体ショーについていろいろと考えていたのだが、良く考えると、マグロ解体ショーは、それ自体、システムとしての社会における振る舞いとして、エロかっこいい営為である。


まず、よく考えると、マグロを人前で解体するのは、グロさと紙一重の行為だ。これがマグロではなく、豚や牛ならば確実にグロい。鶏でも嫌だろう。マグロは魚であることによって、このグロさから逃れている。だが、たとえば、同じ海の生き物でも、これがイルカやクジラなら、解体の様子は哀れを誘うだろう。マグロというのは絶妙のラインである。女としての友近と同じぐらい微妙なラインだ。
グロさとギリギリまで接近しているという事実が、解体によって欲望をそそる。たとえば、TVで友近をみて、他のアイドルやタレントではなく、「こいつを抱きたい!」と思う奴は頭がおかしいが、酔っていい雰囲気になり、安いホテルの一室で友近が脱いだとき、それは猛烈なエロさへと核融合する。
友近のリアルな裸体。
グラビア写真のようにきれいでもなく、まさに「肉の塊」としてリアルな裸体。それは、グロさと紙一重の肉の塊だ。グロテスクに限りなく近いが、グロテスクではない。そのようなものがエロスである。


マグロについて論じるつもりが、気づいたら友近のエロさについて熱く語っていた。。
いったん頭を冷やすということで、今回はここまでにして、次回にちゃんとマグロについて囲うと思います。