オマエ、モテたいの?2

私の小学生時代を省みれば、「かっこつけマン」というのが三本の指に入る罵りことばだった。
「オマエ、モテたいの?モテたいんだろ〜?」とかからかわれると、「そんなことねえよ。モテたくなんかねえよ!」と切り返すのが常であった。むかしの子供たちには、モテようとかっこつけることが、恥ずかしいことであったのだ。
それが、昨今の空前「モテ」ブーム。女性雑誌を中心に、「モテ」という語が氾濫する時代。モテようと努力することは、いまやまったく恥ずかしいことではなくなったのだ。隔世の感がある。まあ、子供がモテたい気持ちを恥だとするのには、ウンコ=恥という図式に通じるところがあって、比較対照としては実はふさわしくないのだが、それでもこの雑誌に踊る「モテ」の語はなんなのか?
これはどういうことなのか?誰しも「モテたい」という気持ちは少なからず持っているはずである。私も子供の頃は「わー、かっこつけマンだー」とかからかいながらも、正直モテたかった。モテたかったけど、モテなかった(涙)。だが、その気持ちを表に出すことは恥ずかしいことだという認識があった。今では、カノジョがおりますが、それでもモテたい。「モテたいの?」ときかれれば「モテたい」と迷わず答える。それどころか、美容師の人にどう髪を切ればいいかきかれたときに、「なんでもいいから、モテる髪型にしてください」といってみたい。服屋では店員さんに「どの服がモテますか?」とかきいてみたい。
話がそれたが、いいたいことは、おそらく「モテたい」という願望の強さそのものには、さほど変化がなく、「その願望を表に出すことが許されるかどうか?」が時代の変化なのだと思う。特に、特徴的だと思うのが、「女性」誌を中心とする現象だという点である。ちょっと前まで、世の女どもは「自分がかわいくなるのが好きだから、お洒落をしている。男の目は関係ない」的なことをほざいてませんでしたか?ほざいてましたよね?いや、たしかにほざいてた!
無意味に活用させてみました。ちょっと反省しています。タイゾー並みに反省しています。
いや、いいたいことは何かというと、ファッションには自己満足という側面があるので、完全にはむかしの女がウソをついてたとは言いませんが、彼女たちもモテたいとは内心思っていたはずで、前者を強調することでモテ欲望を隠した。それに対して、いまの女は逆にモテ効果を強調し、自己満足という側面には、それもあるはずなのに触れない。ファッションにたいする言説=<語り方>の変化であるのです。モテ願望を表に出すことが許され、それが魅力的なニュアンスを持つ語として使われる。
よくわからないので、男の「モテ」と比較してみましょう。男どものモテ願望文化は、我らがホットドッグ・プレスやワニ・ブックスを中心に脈々と培われ、多くの青少年が道を踏み外してきたわけです。誰もがこれらは読んだことがあるはずです。ですが、これらを読んで勉強したいという気持ちは、男同士の間では分かち合えるけれども、たとえばホットドッグ・プレスを持っているところを女の子に見られるのは恥ずかしいことでした。そこにあったのは、モテたい願望=性欲=ドス黒さ、という図式だと思う。男の場合は、「モテたい」=「やりたい」に容易につながるために、モテ欲を表に出すことが恥ずかしいのかもしれない。モテる方法=ヤレる方法なのだ。ふと思いつきましたが、「モテ」の背後に「ヤル」が隠れているという後ろめたさが恥ずかしさの根源ならば、むしろ発想の転換で「ヤル」を前面に出し、男性ファッション雑誌では、「ヤレるTシャツ特集」とか「秋のヤリ髪」とかやってみるといいじゃないかと思いました。
その点、女のモテ願望には、「性欲」というものが直結しないとされているので(本当のところはどうかしらない)、「モテ」という語を大々的に使うのも比較的恥ずかしくないのかもしれませんね。
長くなったので、こんなところで。
気が向いたら次回にまた。