信じるべきか疑うべきか(朝日と産経)

内田樹先生が、朝日新聞の「ジャーナリスト宣言」を批判していた(http://blog.tatsuru.com/archives/001559.php)。皆さんもすでに目にしていると思うが、ジャーナリズム宣言は

言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言朝日新聞

というものだ。
内田先生は、この宣言は言語を道具としてとらえる言語観に基づいており、言語の他者性に無自覚だとおっしゃっている。おそらく、人間は言語を操っているのではなく、言語は牢獄であり、人間は言語に操られているという、とくに構造主義以降に力を持った言語観に基づいた批判だ。この言語観は、構築主義のもとになっていて、とくに人文系の学者など、いわゆる左派的な発想をもつ人に広く共有されているように思える。極端な例をあげれば、ジェンダーフリー運動は、ジェンダーは社会的に構築されるという発想に基づいているが、言語はこの人工的構築にとってきわめて重要なファクターだ。
さて、この「ジャーナリスト宣言」は、ちょっと前の産経新聞のキャッチコピーと比較すると非常におもしろいと思う。それは「新聞を疑え」というキャッチコピーだ*1。これはメディア・リテラシー論に基づくものだと思う。メディア・リテラシー論の基本的な発想は、メディアが意図的にウソをつくというよりは、ある事実を伝える際に、言語による構築の仕方によって、まったく異なる印象を受け手に与えることになるということだろう。
ここでおもしろいのは、メディア・リテラシー論の先駆者がマルクス主義の学者レイモンド・ウィリアムズだということだ。言い換えれば、産経主義のキャッチコピーは、マルクス主義者を大きな源泉とした学問に多くを負っていることになる。逆に、朝日新聞の「ジャーナリスト宣言」は、いわば左派的な言語観とは真っ向から対立している。産経と朝日のイデオロギー的なスタンスを考えれば、「新聞を疑え」と「言葉のチカラ」は逆になるのが当然なのだ。
このねじれ現象は何なのか?
小田嶋隆さんは、「言葉のチカラを信じる」というときに、実は信じてないんじゃないかという感じを受けると書いているが(http://takoashi.air-nifty.com/diary/2006/02/post_4eaa.html)、「新聞を疑え」からはむしろ自信を感じる。ここもねじれている。それか、「新聞を疑え」は、産経新聞なので「(朝日)新聞を疑え」とカッコ書きされているととるべきかもしれない。


このねじれ現象は、おそらく、両紙の権威の度合いによるのだろう。朝日新聞は「権威ある」新聞で、産経新聞は弱小だった。それが、昨今のプチウヨだとかネットウヨ言説の中で、朝日は痛烈に批判され、虚偽メモ問題なので、権威が落ちかけている。現在は新聞業界の中での力関係が大幅に動こうとしている時期だ。産経新聞にとって、「新聞」は権威であるものの、その業界内での地位は低く、「新聞を疑え」ということは、業界内での己の地位をあげる可能性のある行為だ。一方、朝日は転落しつつある権威であり、その権威を維持しようと必死である。自己批判すれば足元をすくわれる立場にある。*2いわば、新聞業界(売り上げ)という世界では、朝日が保守であり、産経が革新なのだろう。


また、これは朝日新聞の右旋回のサインかもしれないとも思う。この宣言は、小泉総理的な「信念」を意識している気がする。「それでも信じる」というところに、右派的というか、マッチョ的な力強さへの憧れがみられる気がする。ついでに、この前の選挙での「ニッポンをあきらめない」という民主党のキャッチコピーを思い出した。その選挙では惨敗だった。だが、示唆的なのは、小泉総理のポピュリズムを批判しながらも、最近では民主党小泉政権と同じような主張をするようになったということだ。
新聞も結局は、売れる売れないが大事なので、朝日も方向転換するのではないかと予測してみる。

*1:余談ですが、いまの産経のテレビCMは何がいいたいのかわからない。地震に備えるのは滑稽だということだろうか?と思いきや、防災グッズのプレゼント。みごとなアイロニーだ。

*2:一応、虚偽メモ問題などを解明して、信頼回復を図るというポーズはとっているが。