マグロ解体ショーはなぜエロティックなのか?−2

前回(http://d.hatena.ne.jp/jirosan/20060210/1139588653)の続き。
前回のまとめ。

・(魚の)死体を解体するというグロテスクさにこそ、エロスは宿る。
友近はエロい。

前回は、本来の意図に反して、友近のことばかり書いてしまった。
だが、いいたかったのは、ジョルジュ・バタイユっぽいことをいいたかった。「エロスとタナトス(死)」とかである。「エロティシズムとは死への暴力」である。「死に対して抱く感情と性に関して抱く感情とは大きな類似点があり比較可能である」のであり、「エロティシズムの領域は本質的に暴力の領域であり、侵犯の領域なのである。」*1
わかりましたか、皆様?私にはよくわからないが、なんとなくわかるような気もしないでもない。仏文的文章は正直好きではないが、このエロティシズム論だけは、なんとなく正しいような気がする。


さて、今回は論をさらに進めたい。ポイントは、
・マグロは赤い
ということだ。通常、マグロ解体ショーでは、腹から切られる。黒光するマグロ。その腹に開いた一本の線。まるで、秘密の花園の一本の筋としてうかぶ、ヴァギナのようではないか。
解体師は、刀のように長い包丁を用いて、マグロの腹から奥へと刃を進めていく。この刀をペニスのようだと思ってはならない。これは残念ながらまったくちがう。これは指のようだと考えるべきだ。加藤鷹のようなゴールド・フィンガーなのだ。
刃をすすめればすすめるほど、マグロ腹の切れ目は広がる。そう、まるで前戯によって、ヴァギナが開いていくように。だからこそ、包丁はゴールド・フィンガーとしての中指であるのだ。
刃物は片身を切りとおす。そして解体師は、切り取った身を高らかに持ち上げる。赤い身を誇らしげに見せるのだ。血が滴り落ちるほど新鮮なマグロの赤身は、さながら充血したヴァギナのようだ。加藤鷹が、ヴァギナに医療用クスコを差込み、ヴァギナを広げて、中の充血した襞を見せているのだ。モザイクをかける必要があるのはヴァギナ外部であるという事実を逆手に取り、クスコで内臓としてのヴァギナを見せることによって、映倫を嘲笑するアダルトヴィデオ業界さながらに、解体師は切り取った身を持ち上げることによって、世の中の倫理をしなやかにすりぬけてみせるのである。
さて、台の上には開かれたマグロ。横長の赤い筒。照明をあび、ヌメヌメとした赤い身は、テカテカと光を放つ。「こんなにも濡れているよ?」と、最前列の観衆の口から漏れる。これはもはやヴァギナそのものであるとしか言いようがない。
では、ペニスはどこにある?
観衆の視線である。充血した粘膜の筒としてのマグロを行き来する、観衆の視線の束。この視線のピストン運動が性器としてのマグロを犯し、侵犯し、死へと称揚するエロティシズムとなる。もはや、マグロ解体ショーは一種のセックスである。儀式としてのセックスだ。熱狂の渦の中で、死したマグロを象徴的に侵犯し、犯すことによって、マグロは儀礼的に死を迎え、消尽したものとして、エロティシズムの高みへとのぼり、聖なる再生へと転じるのである。
マグロ解体ショーに大喜びをしている人間には、セックス教団を馬鹿にする資格はない。ただ黙って、催眠術の本を買いに走るがよい。マグロ解体ショーの亡者どもよ。

信じるべきか疑うべきか(朝日と産経)

内田樹先生が、朝日新聞の「ジャーナリスト宣言」を批判していた(http://blog.tatsuru.com/archives/001559.php)。皆さんもすでに目にしていると思うが、ジャーナリズム宣言は

言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言朝日新聞

というものだ。
内田先生は、この宣言は言語を道具としてとらえる言語観に基づいており、言語の他者性に無自覚だとおっしゃっている。おそらく、人間は言語を操っているのではなく、言語は牢獄であり、人間は言語に操られているという、とくに構造主義以降に力を持った言語観に基づいた批判だ。この言語観は、構築主義のもとになっていて、とくに人文系の学者など、いわゆる左派的な発想をもつ人に広く共有されているように思える。極端な例をあげれば、ジェンダーフリー運動は、ジェンダーは社会的に構築されるという発想に基づいているが、言語はこの人工的構築にとってきわめて重要なファクターだ。
さて、この「ジャーナリスト宣言」は、ちょっと前の産経新聞のキャッチコピーと比較すると非常におもしろいと思う。それは「新聞を疑え」というキャッチコピーだ*1。これはメディア・リテラシー論に基づくものだと思う。メディア・リテラシー論の基本的な発想は、メディアが意図的にウソをつくというよりは、ある事実を伝える際に、言語による構築の仕方によって、まったく異なる印象を受け手に与えることになるということだろう。
ここでおもしろいのは、メディア・リテラシー論の先駆者がマルクス主義の学者レイモンド・ウィリアムズだということだ。言い換えれば、産経主義のキャッチコピーは、マルクス主義者を大きな源泉とした学問に多くを負っていることになる。逆に、朝日新聞の「ジャーナリスト宣言」は、いわば左派的な言語観とは真っ向から対立している。産経と朝日のイデオロギー的なスタンスを考えれば、「新聞を疑え」と「言葉のチカラ」は逆になるのが当然なのだ。
このねじれ現象は何なのか?
小田嶋隆さんは、「言葉のチカラを信じる」というときに、実は信じてないんじゃないかという感じを受けると書いているが(http://takoashi.air-nifty.com/diary/2006/02/post_4eaa.html)、「新聞を疑え」からはむしろ自信を感じる。ここもねじれている。それか、「新聞を疑え」は、産経新聞なので「(朝日)新聞を疑え」とカッコ書きされているととるべきかもしれない。


このねじれ現象は、おそらく、両紙の権威の度合いによるのだろう。朝日新聞は「権威ある」新聞で、産経新聞は弱小だった。それが、昨今のプチウヨだとかネットウヨ言説の中で、朝日は痛烈に批判され、虚偽メモ問題なので、権威が落ちかけている。現在は新聞業界の中での力関係が大幅に動こうとしている時期だ。産経新聞にとって、「新聞」は権威であるものの、その業界内での地位は低く、「新聞を疑え」ということは、業界内での己の地位をあげる可能性のある行為だ。一方、朝日は転落しつつある権威であり、その権威を維持しようと必死である。自己批判すれば足元をすくわれる立場にある。*2いわば、新聞業界(売り上げ)という世界では、朝日が保守であり、産経が革新なのだろう。


また、これは朝日新聞の右旋回のサインかもしれないとも思う。この宣言は、小泉総理的な「信念」を意識している気がする。「それでも信じる」というところに、右派的というか、マッチョ的な力強さへの憧れがみられる気がする。ついでに、この前の選挙での「ニッポンをあきらめない」という民主党のキャッチコピーを思い出した。その選挙では惨敗だった。だが、示唆的なのは、小泉総理のポピュリズムを批判しながらも、最近では民主党小泉政権と同じような主張をするようになったということだ。
新聞も結局は、売れる売れないが大事なので、朝日も方向転換するのではないかと予測してみる。

*1:余談ですが、いまの産経のテレビCMは何がいいたいのかわからない。地震に備えるのは滑稽だということだろうか?と思いきや、防災グッズのプレゼント。みごとなアイロニーだ。

*2:一応、虚偽メモ問題などを解明して、信頼回復を図るというポーズはとっているが。

スノーボード兄妹

成田童夢今井メロ。この家族は、先日書いたことを例証してくれていると思う。http://d.hatena.ne.jp/jirosan/20060208/1139422064
トリノでの一つの収穫です。手作りの金メダルをあげたい。
結果ではないのですよ、責めているのは。
と思ったけど、これで金メダルとか取ってれば、こんなこと書いてないなとも思う。やっぱ結果だよ。


関係ないけど、荒川静香がかわいい。とくに演技をしていないときの髪型がかわいい。クールな感じだけど、酒好きということで、酔ったらどうなってしまうんだろうか。たぶん乱れると思う。乱れてほしい。ここは一つ、なんとか、御社で乱れていただけないでしょうか。
妄想の中で乱れる静香。
「こういうのをツンデレというのか?」と、はじめてツンデレの魅力がわかった気がした。
そして、トリノ・オリンピックはツンデレ・オリンピックとして伝説になった。

マグロ解体ショーはなぜエロティックなのか?−1

GyaOにて筒井康隆劇場『エロティックな総理』が製作されることになったことを記念して(http://arena.nikkeibp.co.jp/news/20060209/115314/)、今回はエロスに迫ってみたいと思う。
以前に、「マグロ解体ショー」ということばは、なぜエロカッコいい響きをもつのかという件について書いた(http://d.hatena.ne.jp/jirosan/20060203/1138984829)。実は、先日そのエントリーを書いて以来、私の心の中にはいつもマグロ解体ショーがいた。「この内容を登録する」ボタンを押し、前回のエントリーを載せたあとも、マグロ解体ショーのことは片時も忘れたことがなかった。振り返るとマグロ解体ショーがそこにいたのである。
ということで、マグロ解体ショーについていろいろと考えていたのだが、良く考えると、マグロ解体ショーは、それ自体、システムとしての社会における振る舞いとして、エロかっこいい営為である。


まず、よく考えると、マグロを人前で解体するのは、グロさと紙一重の行為だ。これがマグロではなく、豚や牛ならば確実にグロい。鶏でも嫌だろう。マグロは魚であることによって、このグロさから逃れている。だが、たとえば、同じ海の生き物でも、これがイルカやクジラなら、解体の様子は哀れを誘うだろう。マグロというのは絶妙のラインである。女としての友近と同じぐらい微妙なラインだ。
グロさとギリギリまで接近しているという事実が、解体によって欲望をそそる。たとえば、TVで友近をみて、他のアイドルやタレントではなく、「こいつを抱きたい!」と思う奴は頭がおかしいが、酔っていい雰囲気になり、安いホテルの一室で友近が脱いだとき、それは猛烈なエロさへと核融合する。
友近のリアルな裸体。
グラビア写真のようにきれいでもなく、まさに「肉の塊」としてリアルな裸体。それは、グロさと紙一重の肉の塊だ。グロテスクに限りなく近いが、グロテスクではない。そのようなものがエロスである。


マグロについて論じるつもりが、気づいたら友近のエロさについて熱く語っていた。。
いったん頭を冷やすということで、今回はここまでにして、次回にちゃんとマグロについて囲うと思います。

子供の名前を決めるときは、むしろ教師に相談しろ!!

子供の名前を決めるとき、よくあるのは姓名判断で、画数がどうしたこうした、と相談して決めるというのを良く聞く。
親にとって子供は大事なものであり、画数などで縁起を担ぎたい気持ちはまあわかる。
だが、名前を決める上で、意外と役に立ちそうなのが、学校の教師の意見である。教師は毎年数百人の子供に接するのであるが、教師をしている友人は、子供の名前は性格形成の上で重要だと考えているようだ。簡単に言うと、ある名前の子は良い子になりやすく、別の名前の子は悪い子になりやすい、ということだ。
子供の名前と性格を結びつけることは、おそらく私の友人にかぎったことではない。むかしBBCの記事で、イギリスの教師にアンケートして、「問題を起こしそうな生徒の名前ランキング」とかやっていたのをみたことがある。以前にFreakonomicsという本(のレビュー)を紹介したが(http://d.hatena.ne.jp/jirosan/20051129/1133241953)、そこでも「名前が人生を決める」という説があった。
とはいっても、名前自体が四柱推命的に運命を決めるというわけではない。世の中には明らかにヤンキー趣味の名前などがあるが、名前には親の考え方や態度が反映される。ということは、家庭環境が反映される。


では、具体的にどういう名前が良い/悪いのか。
私の友達によると、「アンナという名前で、性格が良い子はみたことがない」とのことである。その一方、「愛子など、愛という字の入った子には良い子が多い」という。全般的に言って、「かわいらしい名前」はあまり良くないとのことだ。特に、名前がかわいくて、さらに顔もかわいかったりすると最悪で、「かわいい、かわいい」といって甘やかされて育つので、生意気になるのだという。
もちろん、これは一教師の意見であって、たぶん「アンナ」という生徒に困らされた経験が「アンナ」という名前への不信につながっているのであろう。だが、複数の教師から意見を聞いてまとめてみると、けっこう参考になるのではと思う。
オーラの泉を見る前、教師のオーラを感じてみろ!いや、オーラというか、小宇宙(コスモ)を燃やせ!ということだ。


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追記
上でいったBBCの記事をみつけました。こちらhttp://news.bbc.co.uk/1/hi/education/4274318.stm
下の方にgood listとbad listがあって、教師に印象が良い名前と悪い名前のリストがあるので、便利です☆

芸能人化する魚たち

ここ数回、芸能人を魚でたとえてみたが、気分がいいので他にも適当に考えてまとめてみた。さらに気分が乗れば、随時更新して行きたい。

倖田來未=マグロ(まるまる一本)
   黒光りした肌とムチムチな肉付きが、驚愕の瓜二つ。
細木数子=アジのひらき(焼く前)
   輪郭と化粧の白さが、占星術的激似。
清原和博=うに(いきがいい)
   日焼けの黒さの中にある赤みが、満腹なのにおもわず箸が進むほどウニ。
浜崎あゆみ=えんがわ(回転寿司の)
   白い肌の弾力が衰えてきた感が、天地神明に誓って激似。
RIKAKO=ウナギの蒲焼(タレをつける前、だが白焼きではない)
   色としわの具合が、伊藤家では離婚を免れるほど激似。
さかなクン=魚全般
   彼は宇宙的な魚であり、魚の宇宙だ。